ギャンブル依存症とかのブログ

確率論に言及しないギャンブル依存症対策や治療に疑問を感じます。
不許複製。

タグ:全体主義


愛国心

文科省が学習指導要領改定案の前文に「国を愛する態度」が加わったそうです。ここで疑問に思ったのは「愛国心」は先付けすべきなのかと?。自由主義国家である日本では、物事に対して好きか嫌いかは各個々人で判断すべきで、まだそういった教育方針の私立であれば理解できるのだが、全体的にこういった「愛国心」を教えなさいとして、思想信条を強要するのは全体主義的ですらある。「愛国心」は後付けであるべきであり、勝手に芽生えるものである。

本来は自由であるべき「愛国心」という価値観を幼少の頃より刷り込むという事は、日本という国を愛する事に興味がなかったら、非国民として差別されるという事に他ならない。これは「愛国心」を盾に個人に行動、行為を強要する可能性があるのではないか?これでは戦前、戦中に逆戻りでは無いだろうか?


SEARCH AND DESTROY

今回、文科省が「国を愛する態度」を入れたのは、テロを未然に防ぐ対策の共謀罪と関係しており、小学生からの思想統制では無いかと推測する。小学生から「国を愛する態度」を教えていれば、そういったものを持たない人を見つけるのは容易であり、「愛国者」からのチクリも容易に想像できる。

また、「愛国心」の名の下に、徐々に「日本に忠誠を尽くす旨」を学習指導要領に盛り込み、日本を管理しやすくする為の日本人を構築しようとしてるのではないかと推測する。


先進国なのに後進

インターネットによってボーダレス化が進み、世界規模で情報の同一化、価値観の同一化(これらが全て良いとは思わないが)が徐々に進んでいるのに、それに反するように境界線を国民に明確に意識づけるのは日本は先進国なのに後進している感じさえする。

本来であれば、日本での社会生活を通して国を好きになるのが普通であるべきであり、日本を好きになるような生活を送れる社会を構築すべきでであると考える。


日本人とは

地球規模で考えたら日本人だからといって特別な意味はなく、地球の日本という地域に住んでいる人間というだけである。「日本人のこうあるべき姿」ではなく、「地球人としてこうあるべき姿」を教育するべきだと考える。それは、自由な思想信条の下に、全てを受け入れ、お互いの人権を尊重しあい、お互いを排斥せず、共存することではないかと思う。その為には以前に投稿した記事のようなものが必要だと考える。


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全体主義

インターネットの登場により、情報が伝達する速度が早くなり、情報格差がなくなり、情報が永遠に残るようになった。 更に発達したインターネットにより、既存メディアが世論をリードできなくなってきたと思われる。テレビで「報道しない自由」を発動すればネットで指摘され、ミスリードしてると思われる報道にもネットで指摘される。報道が矛盾していればネットで追求が始まる。 以前まではメディアが一方通行で送りつけて世論形成を図っていたが、これからは既存メディアとインターネットメディアを通じて、一般人がより多くの情報を精査して合理的な世論を形成していく。

インターネットによりこれが進んでいくと、将来は地球規模で情報が平等になり、民族、人種、国家の間で同一の価値観を持つようになり、最終的には国境が無くなるような方向に向かうと思う。しかし、同一の価値観を持つようになり、マイノリティが排除されるのを防ぐ為に、思想信条の自由を保障し、法により人権を守る事をしなければならないと考える。

だが、インターネットではまだ情報を精査できない人も多く、本来は自由な価値観で考えられるのに「全世界でそれが常識だ」的な意見(ヤフコメ、2ch等)に洗脳されてしまう人が多数いる。例えば、「人種差別を無くそう」という運動の場合、インターネットで同じ方向に向かう多数の意見しか読まないと、 バンドワゴン効果でその意見に同意し、人種差別している人の人権、思想信条の自由を全く考察せずに否定する事になりかねない。また、そういった思想信条を完全に否定して消滅させようというのは、少々全体主義的ではないだろうか?それはマイノリティを弾圧するチベット問題等となんら変わりはない。

フランスの哲学者ヴォルテールの言葉にこうある。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

引用元・・・ヴォルテール - Wikipedia



犯罪防止

ここで重要なのは、マジョリティの価値観からマイノリティの価値観、すなわち思想信条の自由を守り、その人権を法により守り、異なった思想信条の人達が共存する事ではないのかと考えます。

そして、思想信条の違う人達の間で争いが起こらないよう、お互いの人権を守るには、罪を犯すのを躊躇する程の核兵器のような強力な刑罰の設置が抑止力になると考えます。

現在の日本の刑罰は、ある程度の抑止力はあるが、犯した罪に対して反省を促す刑罰(死刑もあるが)である。これからの時代は強力な抑止力を持った刑罰、すなわち「拷問」的な刑罰を設置すべきであると考えます。


核兵器の抑止力

核兵器によって戦争勃発の抑止力が最大化されているのに、なぜ、それを刑法に落とし込まないのかと疑問に思っていました。例えば、下の動画はメキシコのマフィアの見せしめなのですが、目をくり抜いて、両手足首を落とし、顔面の皮を剥ぐ。最後はカッターで首を切る。殺人罪にこの処罰をもれなく付け加えれば、例外として、拷問がどういったものか判断のつかない病気の人間には抑止力を発揮できないですが、その場のカッとなった勢いでの殺人、自分が死刑になりたい為の殺人、組織の体裁を守る為の殺人、強盗殺人、自己の思想信条達成の為の殺人等の、身勝手で自己中心的な殺人に高い抑止力を発揮できるのではないかと考えます。

仮に日本の法律でこの拷問(もしくはこれ以上の拷問)を受けて死刑になるのが判っていても、あなたは殺人を犯しますか?

閲覧注意!!メキシコのマフィアの処刑

犯罪者の人権侵害

これでは犯罪者の罪が重すぎる、人権侵害だ。と考える方がいると思いますが、人命を奪うという最大の人権侵害を行ったのは犯罪者側です。生存権を守る為には「反省を促す」「絞首刑」という刑罰では全てを防止できません。この罪(拷問)が重すぎると反対する方も、不運にも犯罪に遭遇して殺される直前になれば、この罪(拷問)が重すぎると反対した事を必ず後悔すると考えます。


99%の日本国民

犯罪が少なくなってきたとはいえ、もっと安心して暮らせる社会を目指すには、約0.00027%の割合(他殺の死者350人と仮定して算出)(*1)で遭遇する殺人、他の犯罪を限りなく0にして防止する事であります。それができるのは犯罪の実行を躊躇させる「拷問」的な抑止力のある刑罰であると考えます。また、実は刑事事件なのに、刑事事件として処理されないものがあるのであれば、その抑止力に繋がる効果も期待できます。更に、「拷問」的な苦しむ処罰が日本にある事を世界で認知されれば、不良外国人の流入、もしくは、人口減少からの移民政策を取った場合の不良外国人の流入をも防ぐ効果も期待できます。そして、殺人を含む様々な犯罪に「拷問」的な刑罰を加えても99%以上(検挙人員230,000人と仮定して算出)(*2)の日本国民には関係が無く、今よりも安心した生活を送れると思います。ただし、上記のように罪を重くした場合に「冤罪」を生まないような慎重な捜査が必要であり、「過剰防衛」等の場合に対しての対応も必要だと考えます。

(*1)参考・参照元・・・人口動態統計 厚労省

(*2)参考・参照元・・・平成28年1~12月犯罪統計【暫定値】 総務省

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ギャンブル依存症の行政・・・天下り?世論誘導?

最近の報道等を見ていると「推計536万人」という数字をあえて発表して、依存症対策を大々的にしなければならないという風に世論を誘導してるように思えます。ここまでくると「ギャンブルをする事自体がダメ」と洗脳しかねない訳で、自由に選択できるはずの個人の行動を制限しようとする世論誘導は、自由主義なのにすごい全体主義的だと思えます。

ギャンブル依存症対策も天下り団体とか助成金とか予算を増やせとかの無くてもいい利権があるのではないか?と疑惑が生じます。しかも、なぜ、行為依存症では「ギャンブル」だけに限定していて、他の行為依存症対策はしないのか?

「ギャンブル依存症」とは、自由権を行使した結果であって誰にも強制されてない訳であり、行動を起こした責任は自分にあるのでは?と思います。


趣味と娯楽

そもそも「ギャンブル」は娯楽とか趣味ですよね。娯楽とか趣味にハマったら依存症だというのであれば、例えば、ホストクラブやキャバクラ、車やバイク、ネット通販等の買い物などの色々な娯楽とか趣味がありますけど、それらにハマっても厚労省の依存症対策を見ると対策はないですよね。「ギャンブル」以外の他の娯楽とか趣味も借金をしたり生活が破綻したりするのに。もし、個人の行きすぎた趣味(依存症)の対策に税金を使う(もしくは業界に依存症対策を促す)というのであれば、公平に全ての依存症に使う(促す)べきでは?と思います。



ギャンブル依存症対策について⑤
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